米子市エリア の記事一覧

五千石地区 NO.01

平成16年9月

左【日野川】
今回は、福市にやってきました!福市は、日野川と法勝寺川の間に挟まれた場所に位置し、古くは人の往来が盛んで市などもあり、とても賑やかだった場所です。

中【安養寺】
安養寺には、瓊子内親王のお墓があります。瓊子内親王は、後醍醐天皇の皇女です。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒そうとしましたが敗れ、隠岐の島に流されました。瓊子内親王は後醍醐天皇と共に隠岐に渡ろうとしましたが許されず、仏弟子となってこの地で天皇の無事を祈りました。そして、安養尼と名乗って今の安養寺を開き、24歳の生涯をこの地で閉じました。その後の安養寺は、江戸幕府の天領となり、お寺の周辺は山市場と呼ばれて栄えたという事で、今でもその地名は残っています。


右【下馬】
神社やお寺の入り口に、“下馬”と記された所は多くあるそうです。
“下馬”とは、武士など偉い人でも、ここから先は馬を降りて歩いていかなければならないという意味です。

 

左【陣笠の地紋】
中に入ると、お寺に古くから伝わる陣笠を磨いているご住職がおられました。ご住職に、この地が山市場と呼ばれていた由来を伺ってみました。一説によると、安養寺が山にかかる場所にあったからとありますが
、別の味方では、安養寺の地紋(紋所)が山(やま)に一(いち)となっていることから、安養寺がある場所だから、地紋の「山一」に「場」をつけて、山市場となったのではないかという考え方もあるそうです。


中【大阪歌舞伎の番付】
江戸時代、天領である安養寺には、芝居・富くじの興行の許可が幕府から出ていました。境内の一角で行われたいた「大坂歌舞伎の役者の番付」がこれです。

右【当時の前売券】
前売り券にはこのように記されています…。
『当日8日より、芝居はじめそうろう。この紙札を持って、とおかご覧にいれそうろう。・・・・・・・ひとつにもんめさんぶ、右、確かに預かりもうしそうろう。《山市場 かんじんもと ぜんしつ とらの9月の晴天》』

 


左【瓊子内親王の木像】
瓊子内親王の尼木像として伝わっているものです。記録としては、今から200年前、450年の法事の時に、宮中で修繕をしてもらったという事です。

中【瓊子内親王のお墓】
お墓に行くと、看板が掲げてありました。
①みだりに域内に立ち入らぬこと。②魚・鳥などを採らぬこと。③竹・木などを切らぬこと。宮内庁皇族の方のお墓なので、一般の人は入ることは出来ないのです。

右【皇族からの贈答品】
お墓では、陵墓守部(非常勤)の高塚さんが掃除をしておられました。高塚さんの家は、100年以上前から代々お墓の管理をしておられるそうです。高塚さんのお宅にお邪魔し、皇族の方にまつわる品物を見せて頂きました。これは、その内の一つで、秋篠宮殿下が結婚された時に記念品として贈られてきた、ぶんちんの様なものです。その他、さかずき・たばこがありました。

 


左【福市考古資料館】
今から37年前に、福市遺跡の調査(当時としては最大)の時に、福市遺跡と青木遺跡から出た遺物を展示する施設として出来ました。現在は、米子市から出てきたいろいろな遺跡の遺物を展示してあります。

中【土馬】
「発掘同窓会」という特別展示が行われ、「陰田遺跡群」と「新山遺跡群」の紹介をしていました。これは、陰田町の谷あいから出土した、7世紀~8世紀頃の土でできた土馬(どば)です。中でも、このように“雄と雌”の作り分けをした土馬が出てきたのは、大変珍しく、陰田町では、雄と雌がセットで出土された事で注目を集めました。


右【竪穴式住居】
福市遺跡の丘陵の上にあった、18号居住室というものを大きさをそのままで移し、復元したものです。いまから1,800年前頃の住居で、福市遺跡ではこのような住居がおよそ90棟見つかりました。1時期には、7棟~15棟くらいの範囲で小さな村があったのではないかということです。

夜見地区 NO.01

平成15年5月放送

 

 

迎接院(こうしょういん)を森さんに案内していただきました。

●阿弥陀如来・・・漁師倉吉屋喜和助が海で見つけ、念仏を唱えながら引き上げた仏像。ある日「夜見の人がこの仏像をとりに来るので渡してくれ」という夢をみた。一方その当時の夜見の村長・森六郎衛門は「欲しかった仏像は灘町に行けば手に入るから貰い受けて来い」という夢をみた。

●森六郎衛門墓・・・阿弥陀如来を持ちかえった森六郎衛門の墓。彼が夜見町を開拓した最初の人物と言われています。

●芋代官碑・・・米子市内に四基あるうちに一つ。毎年地元の人たちが、芋代官・井戸平左衛門に感謝をして祭をひらいています。

 

 

●延命地蔵・・・病気を治してくれた雲水に感謝して作られた地蔵

●大切戸(おおきれと)・・・その昔、弓ヶ浜半島は現在のような形でなく、和田と大崎の間には大切戸という海峡があって中海と日本海はつながっていました。

●お昼はらーめんはうすでいただきました。

 

 

夜見神社を宮司の青砥さんに案内していただきました。

●マイタマイタ神事・・・開村の祖先をまつり、豊作をと繁栄を祈ってワラで大蛇を作るようになった。その大蛇を作るときに「マイタマイタ」とかけ声をかけることからこう呼ばれるようになったそうです。

●蝉丸さん石碑・・・百人一首でも有名な蝉丸さん。平安初期、びわの名人だったそうです。晩年には能面で顔を隠して旅に出て、ここ米子で亡くなったといわれています。

●蝉丸さんお面・・・夜見神社七代目の宮司の時に、博労町の蝉丸神社から蝉丸さんのお面がご神体として移されてきました。

 

 

左・中

●湯立ての松・・・その昔、コレラやチフスなどの疫病が流行した時、この松の下で湯を沸かして神主さんが祈祷をしていたそうです。今でも11月末頃にこの風習は続いています。

●通り道のお宅で、春ねぎの皮むきを手伝わせていただきました。

 

 

●夜西神社・・・万永元年(1860年)に作られた神輿が今でも年に一回、夜見校区を練り歩いています。

●砂山・・・今では規模が小さくなった砂山ですが、昔はここでスキーを楽しんでいたそうです。

彦名地区 NO.01

平成15年2月放送

●米子水鳥公園・・・1年を通して水鳥をはじめ様々な生き物の営みを観察できる公園です。コハクチョウの他、カモ類やサギ類、また国の天然記念物であるマガンも観察することができます。

●道の鳥居・・・粟嶋神社へ向かう途中、道端に鳥居を発見!もともとは粟嶋神社の鳥居だったそうです。

●粟嶋神社・・・古代より神の宿る山として信仰があり、長い伝承と歴史をもった神社。もともとは中海に浮かぶ1つの島でした。この森には200種類以上の植物が生い茂り、学術上貴重な為、昭和57年には鳥取県の天然記念物に指定。米子市の名勝にも指定されています。

粟嶋神社内
●お岩さん・・・少彦名命が粟嶋に最初に上陸した場所として難病苦難の守り神として奉られています。

●八百比丘さん・・・八百比丘さん伝説の洞穴で、延命長寿の守り神として奉られています。

 


●龍宮社・・・海の神様を奉ってあるほこら。彦名地区の漁業・農業は中海があったので成り立っていました。そこで各地区の舟入場には安全を祈願してこのほこらが奉ってあるのです。

●やま本・・・今回の昼食は、彦名郵便局の横にあるお蕎麦屋さんで月見山かけをいただきました。

 


●後藤小学校跡・・・その昔、彦名地区には後藤小学校と粟嶋小学校の2つの小学校がありました。わらぶき屋根の寺小屋風の学校はその後、統合されて彦名小学校となりました。

●葉たばこ乾燥場・・・彦名地区といえば葉たばこ生産が活発でした。ピーク時には100軒くらいあった生産農家も後継者不足などの理由で現在は20軒ほどになったそうです。

大崎・葭津地区 NO.01

平成15年1月

●崎津漁港・・・戦後、弓浜部でとれたネギなどの野菜を松江・安来方面へ出荷するのに賑わっていたそうです。

●大崎神社で大崎の歴史をいろいろ伺いました。

●崎津村旧役場は今はもう使われていませんが、当時の面影が残っています。

●地元で評判の焼肉屋さんでお昼休憩

●芋代官碑・・・明治24年に建立されたこの芋代官碑は、高さ約3メートルと米子にあるものでは一番大きな碑となっています。

和田・富益地区 NO.01

平成14年5月放送


●おふくろの塩・・・R431沿いを車で走ると気になっていた工場。塩作りの様子を覗かせていただきました。

●釣船神社・・・1865年に造宮された神社。疫病よけの神様が奉ってあります。大正2年に和田神社に移したところ、疫病が発生したため、元の場所に戻したそうです。


●芋代官碑・・・山陰地区にさつまいもの恩恵をもたらした井戸平佐衛門。その遺徳をたたえ、芋代官碑が建てられました。こちらの和田町にある碑は米子市内にある4基のうちの1つで、鳥取県内の芋代官碑で最も古いものです。

●以前、「おにぎり」特集で取材をした味平本店でお昼ごはん!


●モット・・・近所に同じ苗字が多い木村さんに伺いました。モットとは本家のことで、昔は親類が近くに住んで助け合っていこうということから、外浜線沿いに本家があり、分家が日本海の方向へどんどん建っていったそうです。

●富益町の芋代官碑


●富益町は米子市内で一番の白葱の生産地としても有名です。

●歴史のあるお宅、長谷川さん邸におじゃましました。祖先の方が鉄砲が好きで「鉄砲屋(てっぽや)」という屋号があるそうです。

大篠津地区 NO.01

平成14年2月放送

●アジア博物館・・・環日本海諸国の貴重な織物、民芸品などが展示されている建物が並んでいます。絣館には、弓浜絣をはじめ、日本各地の織物、日本文化を伝来した北前船などが展示されています。

●綿井戸・・・明治時代末頃まで綿作が盛んだった大篠津町。綿作りには毎日まき水が必要となるため、畑の中に小さな池を掘り、それを綿井戸とよんでいました。

●大篠津駅前で山本公民館長と待ち合わせをしました。
大篠津駅前通りはかつて弓浜地域の中心地として栄え、「浜の東京」と地元の人達はよんでいました。

●御崎の森・・・和田御崎神社の奥にある御崎の森は、昭和53年に米子市の天然記念物に指定されました。弓ヶ浜半島の砂地地帯に現存する自然林で植物の種類も多く、貴重な存在です。