平成18年9月
【左】米子市西福原は、北に国道431号線、南に外浜産業道路のある町です。主要道路沿いにはお店や会社が多くあり、そこから一歩中へ入ると約6千人が暮らす住宅地が広がっています。
【中】「むつみ会」のみなさん。毎日こうしてお掃除をされています。僕も見習わねば。。。
【右】本尊は観音様だが、ウスシマさんも祀ってある。ウスシマさんは婦人病に霊験あらたかと言われているそうです。
【左】森田善太夫の記念碑・・・今の西福原3丁目のあたりは四軒屋と呼ばれ、善太夫やその部下が住み着いたところ。家が四軒しかなかったから四軒屋と呼ばれていました。今でも子孫が多く残っており、姓に『森』の付く人が多いようです。
【右】築約100年の本生さんの御宅。今も立派な佇まいです。
【左】「ソーラン、ソーラン、どっこいしょ~、どっこいしょ~」
元気な声に誘われてやってきたのは福米西小学校の体育館!がいな祭りを目標に週2回踊りの練習をしてきました。
【右】保護者のみなさんです。踊りを通じて子供同士、親同士、また親子の間で新たなつながりが出来たそうです。みんなでがいな祭りで踊ったことがこの夏一番の思い出です♪
【左】生林さんご夫妻-柿作りを通じて出会った方とのふれあいを楽しんでおられます。お二人の笑顔が素敵ですね。
【右】この富有柿が色付くころまた行きたいな~。
【左】今日は年に一度の八朔祭り。豊作を願って200年以上前から続くお祭りです。大勢の子ども達で賑ってますね~。
【中】夜になるとお楽しみの子供相撲の始まりです!「はっけよ~い、のこった、のこった!」さぁ、どっちが勝つかな??
【右】応援にも熱が入ります!!元気な子ども達の笑顔がとっても印象に残りました。
平成18年8月
【左】米子市旗ヶ崎は、約8千人が暮らす、米子市のベッドタウンです。県道47号線をはさんで北側には住宅地が、南側、中海に面した部分には食品団地があります。
【中】旗ヶ崎の歴史に詳しい山口さんにお話を伺いました。明治時代初期までこの辺りは中海の船着場だったそうです。
【右】航海安全と海難犠牲者の供養碑
【左】海潮庵
【中】旗ヶ崎音頭を練習しているのは『なかうみ会』のみなさん!大正時代から地域に根付き、今日まで踊り継がれています。また次の世代へと伝えておられます。
【右】ご夫婦で仲良く朝採れ野菜の販売をしておられます。おふたりともなんと90代!!!なんだか元気を頂いたようです。
【左】旗ヶ崎2区のみなさん。毎週水曜日こうしてカラオケをたのしんでいらっしゃいます♪♪♪
【中】遠くから火の用心の声が聞こえてきましたよ~♪「おじさん煙草、おばさんコンロに気をつけましょう!子どもの火遊びやめましょう!火の用心」わたしたち旗二わかとり消防団です♪
【右】この活動を通じて子供たちの絆が深まっているようです。これからも地域のみなさんの安全を守ってくださいね。
平成18年4月
左【地図】
米子市宗像・日原・奥谷は、米子の南部に位置する町です。
宗像神社や、尚徳小学校がありますね。
中【富士見ヶ丘団地パソコン同好会】
メンバーも、30~80歳と幅広い年代です。
新興住宅地で交流が少なかったのですが、同好会を通して、交流の輪も広がったそうです。
右【法勝寺電車】
今は名残がまったくなく、電車が通っていた道は、道路になっています。
左【荒神さん】
大正のはじめ頃から、1月5日に火をたいて、とんどさんをしています。トシ神さんと、とんどさんの2枚のお札が入っているそうです。
山崩れがあった時にも耐えた神様です。
中【市民農園】
こちらの市民農園では、水菜・チンゲン菜・サニーレタス・大根などを育てているそうです。丹精こめて作った大根を食べさせていただきました!甘くてものすごくおいしかったです。
右【佐藤さん】
現在、佐藤さんが裏山にハイキングコースを作っているそうです。
左【お話を聞きました】
メラピーク(ネパール)へ登山したときの写真を見せていただきました。メラピークは6473m(大山のおよそ4倍の標高)もあり、およそ2週間かけて登ったそうです!
中【文次郎ロード】
山を切り開き、小学校へ通う道を作り、2kmの道のりが、500mになったそうです。
右
「木々が大きくなる頃には、平和になっている」という言葉が書かれています。
左【文次郎さん】
30年間アメリカに滞在。子どもたちの日々の困難を少しでも和らげようと、1945年から「文次郎ロード」を作り始め、5年間で道路ができたそうです。
右【宗像神社】
宗像神社は今の米子市を含む、旧会見郡で最も古い神社です。
勝負事に強い神様として戦国時代には武将や藩主から多額の寄進があったそうです。
平成18年3月
左【宮城一力堂】35年前たくさんのお仲間が建ててくださって、お店を始められたそうです。あつあつの皮がふっくらした桜餅をいただきました。
中【八幡神社】八幡神社からの眺めは大変よく、石井が一望できます。八幡神社のある小高い丘には、かつて石井要害という鎌倉時代の豪族の館があり、出雲や法勝寺方面の道路を守る防衛の拠点だったそうです。
右【成実生活改善女性会】自分たちでお米や大豆を作り、加工場に持ち寄って味噌や豆腐を作っています。お茶を飲みながらみんなでわいわい頂くなど、地域の交流の場になっています。
左【米子高校演劇部】元気いっぱいの6人の部員さんたちです。迫力のある演技でした。滑舌をよくする発声練習を一緒に行いました。
中【かぐや姫工房】「かぐや姫のようなきれいな炭を作ろう!」ということで集まった石井の有志の人たちです。世代を越えた交流の場でした。
右【戸田さん宅の蔵】昔使っていた農具・加工品・衣装などが置いてあります。器や明治の泥人形、ランプなどまるで宝探しのようです。
左【毘沙門天さん】疫病が流行ったとき、群馬県から持って帰ったそうです。
中【庚申さん】風をひかないように小豆ごはんをお供えして、それを持って帰って食べたそうです。毘沙門さんと庚申さんは家のを守るように入り口をはさんで建っています。
右【奈喜良壕】終戦間近に工場として作られたそうです。
平成17年11月
左【皆生今昔の本】
「皆生」はかつては「皆池」でした。
海の近くにある池で「皆池」と書かれていました。
中【ゴルフ同好会】
17年前にできた、「皆生グラウンドゴルフ同好会」。
皆生温泉地区に居住の方でしています。
今人気のスポーツで、健康のためにされているとか。
右【手形の道】
遊歩道沿いにある手形の道。
開湯100周年記念に造られました。手形素材は、法勝寺焼です。
左【日本トライアスロン発祥の碑】
日本トライアスロン発祥の地皆生。
第1回大会には53人が出場。
中【人口リーフ】
皆生は砂浜の浸食が激しく、テトラポットを設置。
かつて砂浜は沖まであったと言われています。
景観をよくするために、人口リーフを設置したりもしています。
右【山川忠玉郎の碑】
漁師である山川忠玉郎が海中から湧き出る温泉を発見したと言われています。
左【観光センター前足湯】
足湯の温度は約40度前後です。
入っておられた方は、手もつけて暖まっていらっしゃいました!
中【観光センター内】
皆生の芸妓さん達の練習風景です。
昭和30年代後半には芸妓さんが200人いたそうです。
今では、たった10人になってしまったそうです。
右【松露(しょうろ】
松茸に近い香りがします。松露採りは昔、地域の人の楽しみでした。
平成17年10月
左【上福原地区】
上福原地区は日野川の西岸にあり、北は皆生温泉に面した地域で、およそ8000人の人々が暮らしています。
中・右【福生村の歴史点描】
平成9年に八幡淳さんにより、出版されました。
元禄時代(1688年~)に村の形態になり、享保時代(1716年~)経済的に豊かな村になりました。
明治時代、上福原村と皆生村が合併して福生村になり、昭和13年、米子市に合併し、米子市上福原になりました。
左【八代荒神社】
慶長時代(1596年~)出雲の仁多郡より分祠して、地区の氏神になりました。
中【くちなわさん祭り】
当年の豊作のお礼と、翌年の五穀豊穣を祈願してわらへびを奉納しています。わらへびに海亀を従わせるという、この地区独特のくちなわさん祭は、毎年11月23日に地区の人々総出で行われ、大変にぎやかになるそうです。
右【わらへび】
全長約30mの巨大なわらへび。長さが長いことと、しっぽに1mくらいの海亀を巻きつけてあるのが特徴だということでした。
左【要津山青龍庵観音堂】
堂内には、松尾山文四郎(江戸末期の力士)によって寄進された観音像33体が鎮座しています。このお堂が元禄時代に創立されたことを推測させる、元禄の文字が刻まれている木魚もあります。
中【福生西公民館】
平成16年3月~福生西公民館が収集を始め、今では市内26ヶ所の公民館でペットボトルのキャップの収集を行っているそうです。
右【ペットボトルのキャップで出来たベンチ】
回収されたペットボトルのキャップは、再利用され、ベンチ・桟橋・階段などになっているそうです。
【裏千家米子支部 淡交会 八原菊恵さん】
子ども週末支援事業の一環として子どもに茶道を教え始められたそうです。茶道を始めたら、子どもたちの挨拶、礼儀がとてもよくなったということです。
平成17年4月
左【米子市西町】 西町は米子城下への入り口として栄えました。 城下玄関口だったこの町には、城主荒尾氏の家臣の屋敷などが建ち並んでいました。
中【裁判所】 鳥取県西部の民事・刑事・家事・少年事件を扱っています。 平成21年から、国民と裁判官が話し合い刑罰を決める裁判員制度が導入されます。 皆さんも裁判員になる機会があるかもしれませんね。
右【鳥取大学医学部】 昭和20年に官立米子医学専門学校として開校。 軍医だった当時の米子市長・斎藤千城が文部省に積極的に誘致を働きかけました。戦争協力体勢の流れの中での設立でした。
左【村河家屋敷跡】 鳥大医学部キャンパス内に、城主荒尾氏筆頭家老・村河家の屋敷跡を示す碑があります。 村河直方は、米子の新田開発や殖産興業の発展に尽力しました。
中【鳥取大学医学部付属病院救命救急センター】 平成16年10月に設置された救命救急が必要な患者は 一日平均2~3人くらい。 7名の先生たちが交代で、24時間365日待機してます。
右【港山公園 鳳翔閣跡】 鳳翔閣は、戦前までは貴賓宿舎、戦後は教育会館として使用。 昭和36年頃老朽化のため解体されました。 現在は、庭にあった松と庭石が残っています。
左【港山公園弁慶石】 庭園にある大きな石には、武蔵坊弁慶が子供の頃中海にある島から投げたという伝説があります。
中【港山公園の桜】 桜は昭和52年頃植えられた。シダレザクラ、八重桜など450本が植えられています。この日は花見客で大変賑わっていました。
右【加茂町・西町で出会った皆さん】
左【米子市加茂町】 加茂町は米子市の中心部に位置し、およそ500人が暮らしています(平成17年4月現在)。 大正4年に堀瑞町と宮町の一部があわさって加茂町となりました 。
中【賀茂神社天満宮】 創建は1300~1400年代。 「米子」の地名の由来となった伝説が残っています。 老年になっても子宝に恵まれない女性が、賀茂神社の湧き水で清め朝晩お参りをしました。
この甲斐あって、八十八歳で子宝に恵まれました。 八十八歳は米寿の祝いである事から米子と名付けられました。
右【宮司 須山倫史さん】
左【天津甘栗のお店「三和」】 昭和47年創業の天津甘栗屋さん。 ホクホクで甘みのあるおいしい甘栗です。
中【佐々木昌平さん】
中【内藤鮮魚店】 米子の下町で40年以上続く魚屋さんです。 朝仕入れた新鮮な旬の魚がずらりと並んでいます。 内藤さんの奥さんと娘さんが作る惣菜は絶品です。
右【内藤孝義さん】
平成17年3月
左【米子駅】
米子は山陰の商都と言われ、江戸時代から明治まで米子の地域が商業活動の中心になっていました。鉄道を敷設するための出張所として鉄道管理局をおいたと言われています。
中【昭和38年の米子駅】
昭和38年3月1日に建てられました。
右【キタロウ列車】
平成5年「ゲゲゲの鬼太郎列車」の運行が始まりました。米子駅の愛称として「ねずみ男駅」とも呼ばれています。
左【江戸兵鮨 上田さん】
鮨屋としては昭和32年くらいから営業をはじめられたそうですが、先代は「めしや」として戦前から駅前で営業をされていたそうです。
昔の駅前の様子をご主人に聞かせていただきました。
中【ふるさとの想い出】
松尾陽吉さん編の【「ふるさとの想い出」写真集明治・大正・昭和米子】にはにぎやかな駅前などの写真が載っています。
右【昔の駅前】
昭和10年頃には通勤時間になると、歩道いっぱいに人がいたそうです。そして、道には闇市があり、「かつぎや」と呼ばれる行商人でにぎわっていたそうです。食料品が主で、魚や野菜お菓子などが売られていたそうです。
左【米子コンベンションセンター ビッグシップ】
国際会議・演劇などの催しがあり、全国からの集客があります。
中【元町サンロード】
その昔、車がなかった頃周辺に住む人が、列車で米子駅まで来て、駅前通りを歩いてきて、ここから商店街に入って、買い物を楽しんだそうです。
右【ワールドザッカ コメッツ】
手作りの物を重視して集められた雑貨屋さんです。30歳代を中心に客の年齢層は幅広いです。カウボーイハット・ウエスタンブーツ・ウエスタンのシャツなどが置いてあります。
お店のオーナーは米子駅前商店街が、以前のような活気が戻るように努力したいとおっしゃっていました。
左【フジメガネ】昭和25年頃に駅前にお店を出されたそうです。お店の方にお話を聞くと、駅前は買い物に便利で、医療機関も充実しているのでとても住みやすいとおっしゃっていました。 今ではマンションも建ち、新たに若い人たちが住居を構え、活気のある街になってきたそうです。
右【中江 藤樹】江戸時代初期の儒学者で、日本の陽明学の開祖といわれた人物です。幼少の頃、米子城主加藤貞泰の家臣だった祖父吉長と、この地に暮らしたといわれてます。「徳育知行合一(とくいくちこうごういつ)」の藤樹精神は今日まで受け継がれているそうです。 そして、この石碑のそばに植えてある藤の木は、近江の生家(滋賀県)から株分けされたそうです。
平成17年2月
左【糀町】
市街地の東部に位置しており、およそ600人の人々が暮らしています。
1丁目と2丁目の間には加茂川が流れています。
中【いくた染工場】
昔ながらの手法でのぼりやのれん大漁旗などの印染をされています。
右【さねしげ菓子店】
明治の終わり頃からさてれいる店です。10円ガムやあめ玉など昔ながらの駄菓子を販売しています。
左【景山屋】
1774年頃に創業され、現在の建物は明治8年に建てられたそうです。以前は数件あった糀屋も現在では、景山屋だけが営業を続けています。
中【道笑町】
道笑町は旧山陰道に沿って、北は糀町、南は日野町に接し、JR山陰本線を挟んで東西に長い町です。市街地の東部に位置し、およそ1700人の人々が暮らしています。
右【米子界隈】
野坂寛治さんが書かれた本です。
左【地蔵堂】
江戸時代からあり、子供の神様が祀ってあるそうです。
米子城から街道に通じる主要道路に面し、古くから安産に御利益があると言われています。
中【百万遍】
町内の子供達が大数珠を回して念仏を唱え、安泰と悪霊退散を願う祈りの行事だそうです。
毎年8月23日の例祭に道笑2丁目の子供会によって続けられているそうです。
右【益尾酒造】
1858年(安永5年)に創業され、明治18年に現在の地に酒蔵を建築されました。
こちらで、特別に新酒のモロミを飲ませていただくことになりました。モロミは絞った後、酒と酒粕に分けられるそうです。
左【法勝寺電車・記録写真集】
平成14年に出版され、法勝寺電車の記録が、写真集になっています。
中【法勝寺電車】
大正13年に走り始めた法勝寺電車は、法勝寺方面から米子への交通の不便さを解消するために、地元の人達がお金を出し合って敷設したそうです。
右【法勝寺駅】
車がとまっている辺りに駅舎があったそうです。そこが、待ち合わせ場所になっていたそうです。
平成17年1月
右【地図】
勝田町と博労町は、JR米子駅から北東へ約1kmほど行った所にある地域です。現在およそ、2,000人の人たちが暮らしています。
中【丸北呉服店の片平さん】
古くから駅前の老舗呉服店として知られる、片平さんのお宅で博労の由来についてお話を伺いました。
博労町は、昔は“馬が喰らうと書いて、馬喰町だったそうです。昭和20年頃は、まだ馬車が通っていて、人が通る商店街というよりは、荷物を運ぶ大事な街道だったそうです。
左【了春寺】
了春寺は、JR博労駅の向かい側にあります。お寺の裏山の下あたりに、江戸時代の鳥取藩の家老、そして米子城の城主だった、荒尾家歴代のお墓があります。
左【荒尾氏一族墓地】
荒尾氏一族の墓所には、大小十五基の墓碑がつらなり、この見上げるほどの墓碑は、240年間に渡る米子城の城主としての格式を今も偲ばせています。
中【米子田植え唄保存会の皆さん】
昔、手で田植えをしていた頃、ずっとかがんだ態勢では、腰も痛く休憩しがちになるので、そんな時、「この田植え唄を歌うことで、楽しくなり、仕事の能率が上がる」と、何百年と歌い継がれている唄です。
保存会の皆さんは、農繁期に、敬老会や各人施設で公演するなど、勢力的に活動をされています。
右【勝田神社】
勝田神社は、米子で最も古い神社の一つです。元々、境港市の外江にあったものを江戸時代のはじめ頃、この地に移したと言われています。鎌倉時代に弓浜地方を開拓した「勝田四郎」が開拓途中で不運にも亡くなってしまった為に、人々が勝田明神として奉っていたと伝えられ、米子地方の氏神として今日まで敬われています。
左・中【法城寺・生田春月墓碑】
こちらは、曹洞宗のお寺で、ここには米子出身の文学者・詩人として親しまれている「生田春月」のお墓があり、その碑面には、春月の作詞一片が刻まれています。
右【連理根上り松】
法城寺の入り口にある、樹齢およそ400年の連理根上り松です。二本の黒松の根が水平に結びつく珍しいもので、大正14年には、国の天然記念物に指定されました。しかし、マツクイムシの被害を受け枯れてしまい、昭和44年には指定を解除されたそうです。
左【県立米子東高等学校】
鳥取県立米子東高校は、明治32年、鳥取県第2中学校として創立され、今年で106周年になる米子の名門校です。
米子東高校には代々、文武両道・質実剛健、自由・自主独立の校風が伝わっています。
右【新土手跡】
江戸時代の中頃に、日野川の洪水を防ぐために作られた土手です。現在残っているのは一部で、作られた当時は、長さ160m、幅15m、高さは3.5mあったと言われています。
平成16年12月
左【車尾公民館】
明治29年に会見郡と汗入郡が合併し、西伯郡車尾村ができました。
昭和11年に米子市と合併し、米子市車尾となりました。
中【深田氏庭園】
国指定名勝 深田氏庭園は鎌倉時代(1307年頃)につくられた庭園です。池泉観賞蓬莱式庭園(ちせんかんしょうほうらいしきていえん)。 築山に三尊石を建て、阿弥陀三尊を表現しています。三尊石が京都南禅院のものと類似し、鎌倉時代につくられた蓬莱庭園として、鶴亀島が原形を残しているのは、京都の西芳寺と深田氏庭園しかないと言われています。
右【第32代当主 深田威美さん】
深田さんにお話を聞きました。
正治2年(1200年)に初代佐々木信輝が車尾の地に「浜中の里」を開墾し、豪士となり深田を姓としたそうです。
その昔、車尾一帯は、沼地で古言では「くつもう」と呼ばれていました。そして「くつもう」がなまって「くずも」となりました。もう一つの説は、後醍醐天皇が詠まれた歌の中に「尾車(おぐるま)」という言葉があり、それを逆に綴って車尾(くるまお)となり、更に訛って「くずも」と呼ばれるようになりました。しかし、真偽は定かではありません。
左【貴布禰神社】
昔から車尾・海池(皆生)・上福原・中島の氏神として700年来鎮座しています。創立年代は不詳です。深田家初代信輝がこの地を開墾し始めた頃(鎌倉初期)と言われています。
人々の常の心の寄り所としてこの地域の人達からあつい信仰を受けているそうです。
中【草摺りを抜く図】
米子市指定有形文化財で、の「とう然」作の「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを抜く図」です。
海池(皆生)村の人たちが伊勢神宮に参拝する際の道中の安全祈願としてとう然が絵馬を描き、奉納したそうです。
右【米子市水道記念館】
創設当時、中央ポンプ室として建てられ、平成10年には県の建物100選にえらばれ、平成13年には国の文化財に登録されました。 中には、米子の水道の歩みをパネルや写真で紹介し、昭和20~30年代にかけて使用していた水位計や塩素減菌機などが展示してあります。
左【塞の神さん】
伯耆では縁結びの神とされているそうです。12月15日の早朝に「わら馬」を持って参拝すると、早く参った者には良縁を授けてくれると言われています。観音寺周辺では、神社ではなく、それぞれの家々のかどで燃やしていたそうです。
右【十一面観音坐像】
鳥取県指定保護文化財になっています。
15世紀初頭(1415年)車尾の豪族の深田氏が観音寺という寺を建てました。十一面観音坐像もその頃に造られ、祖先供養のためにまつられたそうです。
その後、観音寺は尾高城下に移されたが、寺跡に慈眼庵を建てて観音像を安置し、今日にいたるそうです。
平成16年11月
左【県地区】
米子市の南東部、伯耆町と大山町に接する地域。
中【舩木政明館長】
昭和32年ごろ、約420世帯でしたが、現在は1,100世帯を超えるそうです。米子市の工場誘致に伴い、河岡周辺に新しく団地を造成しました。
右【寄贈された時計】
明治23年の懸村発足と役場庁舎の落成を記念して、村民有志から寄贈された時計です。時計の裏面に日曜大時辰儀と書かれています。
左【山口宗明さん】
日下村・福万村・石州府村・河岡村の4ヶ村が合併して懸(あがた)村となったそうです。幕末期に編纂された「伯耆志」に日下の特産品はマツタケであると記述されているそうです。
中【瑞泉寺】
天仁元年(1,108年)に源義親公の菩提を弔うために、寺山に建て立されました。その後永享年中頃までは、大山寺と同じ天台宗に属していました。永享年代(1,430年頃)領主であった山名兵部少輔教えが竹翁仲仙和尚を招き、曹洞宗の寺として現在地に再興しました。瑞泉寺は山名支配下の真野隠岐守の城跡とされ、庭園が残されています。
右【藤本千代美さん】
県地区子ども地域活動支援実行委員会 会長 藤本千代美さんにお話を聞きました。
子ども達と保護者以外の勉強会を開いています。「本音トーク」というシンポジウム形式の会を開いたばかりで、《顔なじみ》や《ネットワーク作り》が大切だという話をしたそうです。
左【ふれあう馬頭琴演奏会】
ホーミー(一度に高い音と低い声を出す発声方法で、世界的にも珍しい歌い方)とよばれる発声法を披露されていました。
最後に馬頭琴による「ふるさと」を会場のみなさんと歌いました。
中【馬頭琴を弾く】
僕も馬頭琴を弾かせてもらいました。ド・レの音までは出ましたが、ミの音が出ませんでした。難しかったです・・・
右【りんご畑】
梅林善男さんにお話を聞きました。
梅林さんは、昭和58年頃から植栽を開始されたそうです。52アールのりんご果樹園を経営されています。ふじをはじめ、つがる・おおりん・ジョナゴールド・せんしゅうの5品種を栽培されているそうです。
もぎたてのりんごをいただきました。みずみずしく、甘味が強かったです。夫婦の愛の結晶のりんごをとってもおいしくいただきました。