令和7年1月放送 米子が生んだ作詞家岡本おさみ特別編
米子市出身の作詞家岡本おさみさん。
ゆかりの地をめぐり、実際に交流された方々のお話を聞きながら岡本さんの人柄を紹介します。
【音楽記念碑】
2024年11月に音楽記念碑が完成した米子市公会堂へ
岡本おさみさんを語る会会長の長谷川泰二さんにお話をうかがいました。
70年代の若者には、岡本おさみさんと吉田拓郎さんのコンビの歌が影響を与えている。
岡本おさみさんを語る会発足時から、第一の目標として掲げていた音楽記念碑が承認された。
記念碑建設の資金集め、クラウドファンディングで集まるのかどうか不安だったけれど、
突破していく力。やってみよう!というのは米子(市民)のチカラ!
クラウドファンディングの8割くらいは県外の方から。
長谷川さんと岡本さんのつながりは、40年以上前にさかのぼる。
岡本さんが米子に帰省された際に、米子では音楽祭がなかなか開かれないと居酒屋で嘆いたとき、『どこでもホールになる! やることが大事!場所がないのは言い訳。』との岡本さんからの言葉をきっかけに、1985年米子ワイワイ音楽祭を開催。
米子市公会堂をメイン会場に、それぞれの場所で各ジャンルの音楽を演奏。
都合が合わず、岡本さんは音楽祭に来ていただくことはできなかったけれど、報告に行きアドバイスをもらった。
『やり続けていく勇気が大事!』という遺言のようなメッセージをもらった。
今後の構想として、岡本おさみアワード(作詞や作曲など創作活動をする次世代の若者たちを表彰する企画)を実施したい。
【旅に唄あり】
山陰中央新報社発刊のエッセイの中に、岡本さんの出身地についての記述があり、実際にその場所で幼馴染のお二人にお話を伺いました。
岡本さんは中学時代、卓球をしていたとのことで、卓球しながら歌っていたのを覚えているそうです。
岡本さん、福村さんともう一人の3人でよく遊び歩いていて『糀町の三羽烏』とよばれていたそうです。
家のすぐ裏を加茂川が流れていて、幼少期は魚とりをされていたそうです。
当時、橋から飛び降りて遊んでいたそうです。
【啓成小学校】
昭和30年代まで今の高島屋のあたりに啓成小学校があった。
福村さんは、帰り道にたまに岡本さんと一緒になると、馬車ひきのおじさんが荷物を下ろしたあとの馬車の荷車にのるなど、なかなかいたずらな一面が・・
岡本さんが作詞家だったとは知らなかったそうで、襟裳岬のレコード大賞受賞で知ったそうです。
【第一中学校(東山中学校)時代の恩師】
第一中学校時代の先生にお話を聞くことができました。
生徒は1学年300人(6クラスで各クラス50人くらい)
西尾さんは20歳で教員に。岡本さんとは、5,6歳しか違わず友達のような関係だったそうです。
(当時の岡本さんの印象は、)人懐っこいところがあった、優しい口調。
有名になったのは知ったのは、襟裳岬のレコード大賞受賞で。
当時の担任の先生から話を聞き、驚いたそうです。
その後、新聞などに名前が出てきたら、つい見てしまう。と話してくださいました。
【高校時代を語る映像が】
岡本さんは米子東高校に進学。
中海テレビ放送に高校時代を語った映像が残っていました。
当時、野球部が強く、よく甲子園に応援に行っていたそうです。
【高校時代からの友人】
岡本さんは、高校時代からの友人である森脇広静(ひろよし)さんを米子に帰省するたびに訪れていたそうです。
残念ながら、森脇さんは昨年11月(2024年)にお亡くなりになり、森脇さんの奥様にお話をうかがいました。
以前は、2階で喫茶店をされていて、お店に顔を出し、何時間もしゃべっていた。
レコード大賞に襟裳岬がノミネートされた日も、実は喫茶店に来られて「逃げてきた・・(笑)」と話していたそうです。表に出ることはあまり好きではなかったようです。
森脇さんの奥さんが、岡本さんに作詞について、話を聞いてみたところ、
楽しい詩ができた時は吉田拓郎さんへ 暗い曲は長谷川きよしさんへと言われたそうです。貴重なお話を聞かせていただきました。
【日本大学時代】
大学時代、岡本さんと交流があったという方にお話を伺いました。
徳田さんが2年生の時、サークル活動で知り合った。
岡本さんは、演劇研究会のOB。日大ミュージカルの脚本・演出を担当。
同じ米子市出身、それも実家は近所で
中学・高校も同じ学校だったそうです。年齢は、3歳差。
徳田さんは東高の野球部出身。故郷の米子については、野球の話をしたことがあるけれど、それ以外はなかったそうです。
岡本さんが米子出身であることを意外と知らない。米子東高校の同窓会の人もあまり知らなかった。「県外の人が来ても、岡本さんが米子出身であることがわかる記念碑ができてよかった」と語ってくださいました。
岡本さんはシャイで、優しい人。
気骨のある、素晴らしい先輩。
【思い出に残る交流をされた方】
日展に入選した時の作品。
岡本さんとは、森田さんは、書道の師匠のつながりで50年前に出会った。
10回目の日展にはぜひ襟裳岬を書いて出したい!と思っていた。
2点作って、1点は出展。
もう1点は巻物にして、入選した次の年に千葉の(岡本さんの)ご自宅に持って行った。
岡本さんは落ち着いていて物静かな人。
岡本さんが、ミュージカルに熱中していた時があり、その時の話などをされていた。
放浪の作詞家といわれていますが、1か月単位で現地に滞在し、地域の方とコミュニケーションをとりながら創作活動されていたそうです。
【山河、今は遠く】
発起人の長谷川さんは、米子を思って作ったのではないかと思い、「山河、今は遠く」(歌 ネーネーズ)の歌詞を記念碑に刻むことにしたそうです。